カルリのドラム演奏 『イリブ・クウォ ilib kuwo 』
パプアニューギニア南高地州の大パプア平原に広がる熱帯雨林に暮らす人口2千人からなるボサビ人。そのなかの一集団であるカルリの人々と自然との共生から生み出された <音> に焦点を当てた民族誌が 『鳥になった少年 - カルリ社会における音・神話・象徴』 です。
スティーブン・フェルドの長年にわたる精緻なフィールドワークによって描き出された、鳥を主題とした自然界の音と、泣きと詩と歌や太鼓の人間界のそれとの、古典的自然主義によらない共生のあり方。
フェルド自身の言葉を借りれば
「機能的に美しい芸術形式」 という考え方は姿を消し、感情的に体験することのできる 「感動をよび起こす存在」 ※『鳥になった少年』 p.306
としての音を仲立ちしての自然との共生のあり方を描き出そうとした苦心作。
その理解の手助けとすべく <人間と自然音との共演> 、つまりは森に囲まれ日々くらすカルリの日常の場面々々の環境音を、歌や詩や口笛やおしゃべりなどカルリの生活の息づかいと共にサウンドスケープ的に切り取り編集されたフィールドレコーディングを主とする作品が、今回ここにご紹介する 『森の声 - カルリの泣き、歌、太鼓』 です。
フェルドによる同様の作品は他にも存在しますが、ここであえて時代遅れのこのカセットテープの作品をご紹介するには訳があります。おって説明しますが、かいつまんで言いますと、まず 『鳥になった少年 - カルリ社会における音・神話・象徴』 をパラパラとめくって受けた第一印象の、近代文明を仮想敵にして自然との共存を謳う <エコ> で <ロハス> な視点のよくある書という思いを一瞬にして吹き飛ばす音源が収録されているからです。
「自然の恵が奏でる音に耳を澄まして、それに協応するかのように自らも奏でてみせる」 と言った時に、頭のなかで勝手に <オカリナの音色> を思い浮かべ、鳴り響かせてしまうという <近代病> の方 (オトグス・スタッフもそうでした) には、きっと <目から鱗> ものですので、ぜひともサンプル音と共に読み進めていただければ幸いです。
※なお、サンプル音の再生にはAdobe社のFlash Player (無料) が必要です。 のアイコンが表示されない場合はAdobe社のサイトよりFlash Playerをインストールしお楽しみください。
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まずA面には、本作品の主題でもある 『森の声』 が収録されています。
夜明けの音、森ではたらく男女、午後の雨、夕暮れ、そして夜へと移り行く、カルリを取り巻く自然と人々の生活音とを全編29分間にわたり巧みな編集により取りまとめられています。
カルリの住む森
『森の声 - カルリの泣き、歌、太鼓』
A面 レインフォレスト
MP3 file 0:32sec
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『森の声 - カルリの泣き、歌、太鼓』
A面 カルリと森の音
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フェルド自身によれば、 『森の声』 は民族学的あるいは人類学的、美的関心から、自然が織りなす音とカルリの実生活における歌やパフォーマンスとの認識論的かかわりへと関心が移行しゆく自らの意識をエディトリアルに表現しうると考え制作されたものだと語ります。
そして、こう続けます。
『森の声』 を編集するといった体験から私が学んだもっとも大きなこと、それは私が以前から思っていた以上に、カルリにとって音の本質は自然の音のなかにはるかに深く根ざしているということだった。言い換えると、カルリの文化は自然の音をそれ自身として合理化し、それから 「ひっくり返し」 て、いわゆる 「自然」 または 「人間の所有する自然」 の形で音を投影している。 ※『鳥になった少年』 p.338
サンプル音からもうかがえるように、 <森の一員> として、鳥たちのさえずりに響応するかのように営まれるカルリの日常の、その中から生まれた <音楽的なる行為> を、フェルドはその誠実さでもって、欧米人である自らの文化圏の <美的習わし> に従い切り取り客体化し、芸能として区切りを設けずに、カルリとその森の音のアンソロジーとして提示することにより表現しようとしています。
例えば次にあげる、20世紀フランスの作曲家 オリヴィエ・メシアン (Olivier Messiaen) の有名なピアノ曲 『鳥のカタログ』 なども、フェルドが語るカルリの文化と同様に、 - 「自然の音をそれ自身として合理化し、それから 「ひっくり返し」 て、いわゆる 「自然」 または 「人間の所有する自然」 - へとするところまでは同じで、それ以後に欧米人的習わしで客体化し <美的構築物> の 「音楽作品」 として成立させ行くという違いはあっても、そこに到るまでの精神的プロセスは同様のものだと思います。
ニワムシクイ Fauvette des jardins
オリヴィエ・メシアン
『鳥のカタログ』
MP3 file 0:19sec
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上記サンプル箇所のモチーフとなったニワムシクイの鳴き声
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メシアン自らがフィールドワークを行い、鳥たちの鳴き声をその場で実際に聴き、採譜し、その素材を素にして生み出されたのが 『鳥のカタログ』 で、上記のサンプル音は、その1節と、その箇所の素となった ニワムシクイ (Fauvette des jardins) の鳴き声です。
Olivier Messiaen: Catalogue D'Oseaux
上の楽譜を見ていただいても分かるように、その要所々々にはモチーフとなった鳥たちの名前が記されていて、自然をいかようにトレースし作品を生み出したかを、意味論的レベルでも明確に指し示そうとするメシアンの意図が見てとれます。
曲の <難解の度合> は、鳥たちの 「鳴き」 の基本シラブルをフレーズとしてどのように構築しゆくかの方法論で決まり、リズムなどにその拠り所を求めれば難易度は下がり、十二音技法やトータル・セリーなどの音楽語法にそれを求めれば難易度が 「グッ!」 と上がるという、いわゆるそれらは美的に構築し、 『作品』 へと昇華しゆく過程での問題であって、決して <近代知> をこねくり回して <異形の何か> を描き出すために <小鳥のさえずり> を引っ張り出してきた訳ではなく、下記サイトで紹介されている軽井沢でのメシアンの興味深いエピソードなどからも分かるように、その基本姿勢は、自然のただ中にあって、よく見、よく聴き、体全体で感取しようとする、先のカルリの文化と同種のピュアな思いが基になってのことだと思います。
● 軽井沢でのメシアン
自然を有るがまま受け入れ、それを自らの営為に反映させる。
敬虔なカトリック教徒であったオリヴィエ・メシアンが、神がお創りになった被造物の、その背後に神の御意志を読み取り、形而上学の高みへと向かわせようとするように、また、 <エコ> で <ロハス> な人々が西欧近代合理主義的 <穢れた> 世界を洗い清めてくれる担い手として、その自然に思いを馳せるように、カルリの人々は、その場で、その恵みと共に、まさに、その生を享受する................。
とすれば、カルリの人々は、メシアンが想い描いたような神の被造物に抱かれ暮し、 <エコ> で <ロハス> な人々が想い描く、毛玉にくるまれたようなパステル調の世界で日々暮す、ユートピアの住人であるのだろうか...........?
ただここからです。
フェルドが語る、その先の - 「人間の所有する自然」 の形 - で、その音を本来の自然へと投影するというカルリの文化の、その徹底した、どこまでもが森と共存する営みの中から生み出された <別種の音> を聴くに、本当の意味での共存のありかたとは、 <エコ> で <ロハス> な人々の近代文明の反省形から生み出された発想からは抜け落ち、神のご意志の先の古典主義的世界像を投影してできた <レディメイドの自然> からは削ぎ落とされた存在領域にあるものをも含めたかたちでしか存在しえないということを改めて気付かせてくれる、そんな 「音」 世界がこの古ぼけたカセット・テープのB面に収録されているのです。
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